二の章  神無の冬
B (お侍 extra)

          *久蔵さんが“次男坊”どころかヲトメです。(う〜ん)
           それだけは勘弁してという人は、素通りして下さったほうが…。
 



     
虎落笛(もがりぶえ)



 木枯らしが柵や竹垣、電線などに吹き付けて放つ、ひゅーんひぃーんっという笛のような音を“虎落笛”という。それで虎をも避けたのか、竹を筋交いに組んだ柵を“もがり”と呼んだことから来る言葉だそうで。強い北風に泣かされて、高く低く尾を引いて響くそんな物音は、厳しい冬の到来を知らせる、物哀しげな呼び声には違いなく。ついつい身をすくませて辿るは家路。屋根へと分厚く敷かれた茅葺きの中から、もやりと立ちのぼる湯気の影が、囲炉裏の暖かさを偲ばせる。
「…ただいま。」
 居室の囲炉裏端に敷かれた夜具に身を起こし、ぼんやりしている姿へと、まずは声を掛けてやる。広々とした三和土
(たたき)土間の先の、相当に痛んで古ぼけた板張りの壁の上。明かり取りを兼ねての連子窓が空いているのを、遠く遠くを望むように眺めやる、すっきりとした横顔が、外から戻って来ると まずはと眸に入るからで。金の髪や白い肌が、射し入る光に淡い反射を為してその輪郭をぼやかしており。赤い色味が玻璃玉みたいに透いた瞳は、何を映しておるものか、やたら遠くて掴み難く。とはいえ、
「………。」
 帰って来た家人への関心が、向かない彼ではないようで。なめらかに意識を切り替えると、構っておくれとの眼差しを、こちらへしきりと向けても来るようになった。
「外は随分と寒くなりましたよ。」
 土間で外套を脱ぎながら、そんな風に話しかけつつ歩み寄れば、こちらに先んじてのこと、どらと片手を伸べて来て、
「おお。」
 本当だとびっくりして見せるのへ、
「ああほら、冷たい手をわざわざ触ってどうします。」
 やんわりと笑って差し上げ、そんな所作の弾みで細い肩から落ちた綿入れを、そっと掛け直してやる。掃除や洗濯、ちょっとした炊事などなどと、家事を一人で切り盛りし、そんな手が空けばすぐにもその傍らへ寄ってくれる七郎次へと、以前よりもずんと懐っこく、視線で甘えたり擦り寄ったり、話しかけてさえ来るようにもなった久蔵だったが。そんな彼の態度は、無聊をかこつ身の相手ほしさというよりも、
“何かを隠しての無理からの愛想か、それとも…。”
 不用意に内面へと入り込まれぬためにと、取り急ぎで設けた楯や鎧としか見えなくて。
“刀の他では不器用なお人なんだから…。”
 それがあっさりと判ってしまう、自分の鋭さは棚に上げ、困ったお人だと案じてのこと、目許を細める美丈夫さん。あの途轍もない治療の後、最初の1週間は起き上がることさえ腕へと響こうから厳禁とされ、十日が経ってやっと、寝間で身を起こしてもいいというところまでの許可こそ取り付けた。とはいえ、まだまだ快癒まではずんと先が長い重傷者。あの激しい戦いの最中では、彼もまた右腕以外にもあちこち被弾していたし、軽くはない怪我だってたんと負ってもいる身。都相手の戦さも終わって、錯綜していた状況も一応は収まったことだしと、のんびり養生していればいいものを。まるで停まったら呼吸出来なくなるという回遊魚のように、無表情のその下で、何とも苦しそうな顔をしている彼だと、七郎次にはつくづくと判る。だが、
“………。”
 怪我は怪我だと、時が経たねばどうにも仕方がない手合いのものだと、そのくらいは…それこそ久蔵ほどの冷静怜悧な合理主義者に判らないはずがないだろうに。それでもこうまで焦れているのは、一体どうしたコトなのか。

  「………。」

 肩のすぐ間際から親指の付け根が埋まるまでというほどもの不自由さで、石膏で固めてある重い腕。起き上がったときに載せるよう、うずたかく座布団の類を重ねた山が枕元に据えられてあり。起きたときに腰などが疲れぬようにと気遣って、村の器用な細工師さんが、木彫りの座椅子を作ってもくれていた。いくら双刀を自在に操っていた彼だとて、他のことまで両手で同じように処せるというものではなく。食事や着替えや何やには、七郎次が甲斐甲斐しくも手際のいい給仕や補佐をこなしており、甘やかし上手な彼へは、以前からも構われていた下地があったこともあり、抵抗なく世話を焼かれている模様で。表面上はそれは静かに、快癒への日々を送っている穏やかな日々でしかなく見えもするのだが、
“食欲が日に日に落ちていますしね。”
 お給仕をする七郎次だから判ること。身体全体の消耗が癒えて来るにつれて、食事も重湯から普通のそれへ戻ったというのに、ほんの数口かそこらで、申し訳無いとの言葉とともに匙を受け付けなくなる。体を動かさないから腹も減らぬと、そんな言い分を付け足す彼だが、伏したままだった最初の頃に比すれば、結構身動きをしているのだから、そんな理屈はおかしい。
「…おや。」
 自分がちょいと炭小屋までを出掛けていたのは、彼がうとうと転寝しかかっていたことと、午前中は哨戒の差配に出ていた勘兵衛が囲炉裏端へと戻っていたからで。それで“後をお任せしますね”と勘兵衛へ言い置いて、此処を後にしたのが小半時ほど前だったか。衾の上へ身を起こし、座布団の丘へとその右腕を載せているということは、身を起こした時はそれを手伝ったろう勘兵衛が居たらしかったが、今は何用でか姿がなく。そして、
「…これは、どうしましたか?」
 布団の陰から覗いていたものを、はっとしたご本人より先にと取り上げる。よほど使い古されたものか、小豆だろう中身も少なく、側生地も陽に晒されてか古ぼけた風合いになっている。他愛のないお手玉ではあったけれど、
「こんなものを、それも右の手で弄ってもいいとは、医師殿からの許可もまだ降りてはいませんでしたよね?」
「………。」
 後で聞けば、部屋の隅に追いやられていた、姿見を据えた鏡台の引き出しに入っていたのだそうで。誰もいなくなったわずかな隙に、何かないかと…痛くて重い右腕を抱えつつ、文字通りじりじりと這うようにして探した末のお道具だったらしくって。とはいえ、
「何か掴む練習だなぞと、まだまだ早いでしょうに。」
 お説教だなんて、柄でもなければそんなにお偉い立場でもないが、それでも。焦って身を削ってもいいことなんてありませんよと、諌めるつもりの言葉を掛ければ、
「…。」
 言われるその通りだという理解も、だっていうのに無理をしたことへの後ろめたさも、さすがに持ってはいたものか。布団を掛けた膝の上、悄然とした態度にて視線を落としてしまった久蔵であり。ただ、

  「…痛むのだ。」

 小さな小さな声で呟くから。そうでしょうともと微苦笑を向けてやりかかった七郎次へと続けたのが、
「本当に治るのかと、思って。」
「…はい?」
 とんでもない修羅場に身を置いた。それで受けた傷の加療にと、あれほどの荒療治を受けた。にも関わらず、その双方のフラッシュバックにより、悪夢に魘されるということも、熱を出すということもなく。実に健やかに、順調に、表面上は穏やかな日々を送って来たその陰で、
「…久蔵殿?」
 彼も彼なりの不安を抱えていたということだろうか。先程までは穏やかだったそのお顔をうつむけて、視線だけを石膏に封印された腕へと向ける。冷然と冷めた横顔は、何とも清冽に鋭く冴えており、
「指先へ何かが触れただけでも痛む。もう半月も経つというのに。」
「まだ、半月ですよ。」
 七郎次が言い換えたものを、振り払うようにかぶりを振る。ただの骨折なら半月もかからないもの、たとえ複雑骨折でも、こんなにはかからぬと思えばこその焦りが、実は彼を苛つかせていたらしく。
“これまでに、こうまでの傷を負ったことがなかったのだろうか。”
 あの、人間離れした…鬼のような彼の強さの根源である、自由奔放にして巧みな太刀筋と、戦いにおいて絶妙にその身を捌けるセンスとは、数多の失敗や敗北もとりどりに散りばめた末の蓄積から得たものではなくて、天性の勘が齎したものだということか。そんな、負けも痛みも知らぬ身に、この停滞は何にも勝る手ひどい屈辱だということなのか?
「筋肉断裂も関わっているので、慎重に構えよと…。」
 医師殿の言いようを繰り返した七郎次へ、それを遮るようにと零したのが、

  「いっそ、義手をと望んだ方がよかった。」

 そんな思いがけない一言だったものだから。七郎次がその青い瞳を、驚きとも…心への痛みへの反動とも取れるような勢いのまま、大きく見張ってしまったのは言うまでもなくて。
「…久蔵殿。」
 声を掛けても視線を合わせぬは、七郎次もまたその左腕が義手であるからか。確かに大戦の頃は、優れた武将ほど、手や足などをひどく損じると、機械化に走らぬまでも衒
(てら)うことなく機械の装具で補ったものだったし、周囲もそれを善きことと盛んに薦めた。何と言っても回復術(リハビリ)に時間を取られぬからで、技術革新により装具には優れたものが増え、復帰はどんどん早くなり。しかも前より頑丈な部位にもなるから、怖いもの知らずな勇猛さへも拍車が掛かる。善くも悪くもそういう手段に世話になるほどの怪我を負ったことのない久蔵にしてみれば、後れを取った、すなわち敗北を帰した証しではないかと、これまではそんな感慨のあった“義肢”だったが、
「そうまでしてもという意味や気概が、今なら判る。」
「そんな短慮は…。」
 捨て鉢な言いようをするのはやめなさいと、説き伏せようとする七郎次へ、
「短慮などではないっ。」
 一も二もなく抗ったなんて、もしやして初めてのことではなかったか。反発されるのは構わないが、様子がおかしいというのがひしひしと感じられ、それが妙に引っ掛かる。
「久蔵殿…。」
 何かがおかしい。何かが咬み合っていない。
“いや、そうではなくて。”
 彼の中に激した何かがあって、それが今にもほとばしろうとしかかっているということか? 日頃の表現体が冷静だからといって、内面までもが冷めているとは限らない。より強い者との太刀合わせをのみ望んで、長年の友をも斬ったほどの熱を、彼は確かに示したではないか。
「久蔵殿。」
 今のこの焦れようも、まだ押さえの効くそれだとの解釈もあろうけれど。見ようによっては…日頃の彼からすれば相当に激しい癇癪であり、

  「何かしらの鬱屈とか、お腹に溜めてやいませんか?」

 動きが侭ならぬことへと単に焦っているだけとも思えない。くどいようだがもう戦いは済んだ。だというのに、こうまで気が逸っているなどとは尋常じゃあない。一体何へとこれほど焦れている彼なのかがさっぱりと判らない。ただ、今は…その糸口が覗きかけてもいるようだから。
「話してくださいませんか?」
 布団の上に置かれた手を取れば、ひやりとした白い手は、だが嫌がる風ではないままで七郎次の手へと預けられ。ただ、
「…。」
 白いお顔の方は視線を避けるように俯くばかり。それでも、根気よく何か言い出すのをと、ただじっと待っていると、

  「春になったら…。」

 ぽつりと。やっとのことで久蔵が呟いた。出来るだけ思うところを引き出したくて、先回りした言いようを挟まぬように目顔で先を促せば、
「雪深いこの地から雪が退いたら。皆して此処から出てゆくと。」
「はい。そのように目
(もく)しておりますよ?」
 この神無村を訪なうのは、それは長くて雪深い冬だそうなので、雪に紛れて外からの目も相当に誤魔化せよう。その間に傷ついた体を癒し、元通りに整えて。雪解けと入れ替わりに訪れる、春の声と共に、自分たちも此処から発とうという心積もりを、昨夜遅く、丁度長老殿と共に此処へ来合わせていた五郎兵衛殿と話していた勘兵衛様であり。先に隣りの寝間へと就かせた彼の耳へも、その話が聞こえていたのだろう。
「隠すつもりはありませなんだが、虹雅渓の菊千代の様子と、彼の身の振り方も浚ってからでなければ決められぬこと。」
 コマチとの約束を持つ彼だけは、この神無村に残るはず。とはいえ、周囲が勝手に処せば怒るに違いないからと。それで、
「まだ“決定事項”ではないとしていたまでのことなのですが。」
 それを気にしてらしたのですか。だったら気が回らなくってごめんなさいと。俯いたままの久蔵の、俯いたお顔へと陰をかけている金の髪へ、そぉっと手を伸べた七郎次だったのだけれども。
「島田はもはや仕事も終えてしまったというに、俺は…。」
 口が重いのは、いつもの口足らずなんかではなく。辛くて言葉を濁したからだと判る。やはり、いつまでも床から離れられないままな身に焦れている彼であるようで、
「それは仕方がありません。勘兵衛様だとて、そのくらいは…。」
 判っておいでですよという宥めの言葉を遮るように、何度もかぶりを振って見せ、
「うとまれているに違いない。このまま春まで待ってはくれぬ。」
「そんな…。」
 思い詰めたような横顔には、聞く耳をもたないという感さえあって、
“………。”
 口調はあくまでも静かで、らしくもなく ただただ悲嘆に暮れているばかりのような彼であり。激してなどいないと、ただただ気落ちしているだけ、そんなようにしか見えないが。
“…これって。”
 さっきからの彼の言葉はどれも、異様なくらいに決めつけているものが多く、しかも…、
“論理的ではありませんよね。”
 むしろ…とその先に気がついて。

  ――― もしやして彼は…感情的になっているのではなかろうか。
       しかも、初めてのこととして。

 子供のころは知らないが、刀でここまでのひとかどの人物になるにあたって、彼は様々な雑音や余剰物を、その身より片っ端から捨てたり削いだりして来たに違いなく。人の懐ろ、人格のうちの許容部分というものは、様々な経験を積んで得るもので。苦衷もさんざん味わい、人の痛みも知り、そうやって少しずつ、責任の重さと共に膨らませるもの。それが足りていないとまでは言わないが、同行するようになったばかりの頃の、それは冷然としていた彼を思い返すに、この若さでこうまでの高みに毅然と立つには、孤高を保つには、どれほどのものを捨て、その身を精錬させて来たことだろうかを思うほうが早くって。

  ――― だとすると。

 そんな彼をこうまでも。制御に慣れのない“感情”が暴走してしまうほどに煽りつけ、追い詰めて振り回しているものとは、一体何なのか。
“………ふ〜ん。”
 成程ねぇと、何をか しみじみと噛みしめた七郎次。さすがは年長者で、どうやら気がついたことがあったらしく。さて、どうしたものかと迷うでなく、
「…。(くす♪)」
 苦しげにしているお人を前に、彼には珍しくも、くすすと聞こえるように笑って見せるではないか。え…?と。あまりに意外だったか、顔を上げた久蔵と眸が合って、
「ああ。これはごめんなさい。」
 辛いお人の前で、考えなしでしたねと謝りはしたが。何だか…真剣味の欠けた言い回しであり。しかも、
「でもねぇ。アタシは…正直なところを言わせてもらうと。怒らないでくださいよ? 久蔵殿が当分は刀を握れない身になったことへ、ほっと安堵したクチなんですよね。」
 さらりと言って、ふわりと微笑む。さっきまでの案ずるそれとは打って変わった、艷然とした笑顔を前に、
「………。」
 こちらはますますのこと、不安を募らせるような顔になる久蔵で。傷心している自分へと、ついさっきまではそりゃあ親身になって、いたわろうとしていてくれた七郎次であったのに。どうしてこんな、手のひらを返したように傷つけるような言いようばかりを並べる彼なのか。甘えるのもいい加減にしなと、とうとう呆れてしまったのだろうか。戸惑う久蔵を前にして、

  「だって。そのおかげで勘兵衛様の寿命が延びた訳ですし。」
  「…え?」

 ポカンとしている彼を前に、再びくすすと笑った槍使い殿、
「お忘れですか? 勘兵衛様とは、野伏せり斬ったら刀での決着をつけるって約束をしたのでしょう?」
「…。」
「でも、それが延期になってた訳でしょう?」
「…ああ。」
 今の自分にはそれどころではないと、思い知らされる痛さにその柳眉がきつく寄る。掛けられる声を振り払いがてら、またぞろ憂鬱そうに俯きかかった久蔵だったが。その横顔へと向けて、

  「勘兵衛様は、一度交わした約束は絶対に忘れませんよ?」
  「…?」

 やけに真摯な声が立ち、顔を上げると…七郎次が、今度こそそれは真剣な眼差しでこちらを見やっているのと視線がぶつかる。澄んだ水色の双眸は、こちらからの視線を逃さぬようにとばかり、強い気勢を張っており、
「あなたを待たせてまで、神無村を野伏せりから守った。攫われた女性たちも取り返した。皆さんの苦しみや悲しみの象徴、商人たちの欲望の凝り固まった魔城のようだった“都”も堕とした。どうです? 全部守って果たしたでしょう?」
「…。」
 うん、と。声もなく頷いた久蔵へ、

  「だから、次は久蔵殿の番。」

 伸びやかな声をくっきりと区切って。あっけないほど簡単に、彼はそうと言ってのけて。
“…え?”
 再び、久蔵を面食らわせた。あまりに端的な言いようだったから、言われた言葉の意味が、すぐには頭や心へと浸透して来なくって。
「俺の、番?」
「そう。久蔵殿の番。」
 勘兵衛様も言ってたじゃないですか、もう仕事はしまいだと。あのとっても辛かった治療のすぐ後のことを持ち出す彼であり、
「久蔵殿が“俺のだ”って言ったとき、違うって否定なさいましたか?」
「…。」
 無言のまま かぶりを振る。その視線が七郎次から離れない。何を言い出したんだろうと訝しげだったものが、今は。一言一句、聞き漏らすまいとするかのように、その一言一言が温かな妙薬ででもあるかのように、真摯に聞き入っている彼であり、

  「約束は必ず守るし、必ず果たすのが勘兵衛様です。
   だから、久蔵殿をいつまでだって待っててくれます。」

 そう、今度は勘兵衛様がお預けを食う番だってことです、と。再びその表情を緩めて、楽しげに“くすす”と笑った七郎次。
「こんなに焦らされたんだもの、お返しに う〜んと待たせておやんなさい。」
 こつんこと。おでこへおでこをくっつけられて。とっても間近になった水色の瞳が、ふっとぼやけた。片腕しか伸びないのが歯痒くて。それでも手を伸ばすと、
「…判りましたね? 焦れたりしなくて良いってこと。」
 そう言いながら、向こうから。二人分ですよと、ぎゅうと思いっきり抱きしめてくれて。つきつきする目許を、いい匂いのする懐ろに、そぉっと掻い込んでくれる優しい人。温かい懐ろへその身を預け切り、深々とした吐息をつく久蔵へ、

  “…やっぱり、そうだったみたいですね。”

 いきなりの取り乱しようへ、だが、何だか不整合を感じた七郎次が。ちょっと待てと、自分をまずは落ち着かせ、それからあらためて思い返したことがあって。
“そうなんですよね。アタシよりずっと年下だってのに…。”
 あまりに落ち着き払った達人であることから、ついつい誤解しかかってたこと。刀を振るわせればどんな剣客にも引けを取らぬからといって、思考や経験値までもが高いとは限らない。途轍もない武勲で知られる猛将が、だが、恋人も妻もなく、子孫を残さぬまま夭逝した例は五万とあるし、何かに飛び抜けて突出している者は、それを補うかのように何かが欠けているというのはよくある話。それでなくとも、彼は…とんでもないところがごそりと足りないことも多かりし人物ではなかったか?

  ――― 誰かを想うあまり、侭ならぬことに殊の外 焦れている。

 そうと思えば。いやさ、そうとしか思えないと気がついた。なかなか快癒への兆しが見えぬと、何でそうまで焦れる? 自身のことだ、自分さえ時を待って堪
(こら)えれば済むことへ、なのにこうまでむずがるだなんて、どこかで帳尻が合わなくはないか?

  『春になったら…。』
  『うとまれているに違いない。このまま春まで待ってはくれぬ。』

 自分ではない“誰か”という対象次第なこと。待っててくれるかどうかは相手の心積もり次第だなんていう、不確か極まりないことへの不安。そんな“感情”に、胸が裂かれそうになるなんて…そんなことに振り回されるのなんて、初めてなんだとしたら?

  “それへの自信が皆無だから、不安でしょうがないのだとしたら?”

 だとしたら。なんて可愛らしいお人だろうかと、彼自身に成り代わり、胸が頬が擽ったさで熱くなる。一刻も早く治らねば、置いてかれるんじゃなかろうか。それが不安だったから、余りに怖かったから。あんなに待ってたその約束の中身さえ忘れるほど焦れて、気が逸ってた彼であり。
「義手にするだなんて、勿体ないことは言わないでくださいな。」
 懐ろへと凭れてくれてる赤い眸の可愛い人へ、こっちはそうじゃあない、無事だったほうの白い手へと、自分の冷たい機械の手の指をからめてやり、
「アタシは今や、この手を随分と気に入っておりますが、それでもね。」
 久蔵殿の、あの鮮やかな剣技はやはり、生身の体で、生身の腕で会得したそれなのだから。その勘をああまでなめらかに再現できるのは、やっぱりそのままの…生身の腕でしかないと、そう思うから。
「それより何より、望みがあるうちは諦めちゃあいけません。」
 だから。この腕が、久蔵殿が満足のいく状態になるまで、なんぼでも引っ張り回しておあげなさい。間近になった切れ長のそれは綺麗な瞳へと、ゆっくりしっかり一語ずつ、囁きかける。
「今度は、久蔵殿が決めていいんですからね。」
「俺が…決めていい?」
 ええと、思い切り力強くも頷いて差し上げたところで、表からの戸が開いた。
「おや、勘兵衛様。おかえんなさいまし。」
 框の縁に腰掛けたままだった七郎次が声を掛け、さすがに…少々みっともない取り乱し方をしたばかりの誰かさんは、顔を合わせづらいのか、ふいとそっぽを向いたけど。その目許へと光るものだけは、さすがに見逃す訳にもいかなんだか、
「? どうかしたか?」
 早亀が来ていたらしく、何通かの書状をそのまま七郎次の手へと手渡しながら。近くへ寄った…今は白い小袖の君へと案じるような声を掛けた、いかにも男らしい重厚闊達な存在へと、
「何でもありませんって。」
 彼より先に応じたそのまま“内緒ですよねぇ?”と言いながら、小首を傾げた七郎次へと。これも意を合わせてのものか、泣き笑いの目許はそのまま、それでもこっくり頷く所作を見せる久蔵であり。まだほのかに屋内へも射し入る、やわらかな晩秋の陽光の中。線の細い風貌をした彼らには、甘やかで優しく、何とも似合いな振る舞いであったので。
「…そうなのか?」
 やっぱりさっぱりと読み取れないままながら。だがまあ、本人たちが幸せそうに笑み崩れているのなら、まあいいかと。その精悍な面差しを趣き深い微笑にて、こちらさんもほころばせてしまわれる、蓬髪の惣領殿。

  “本当に、問題なんてありませんて。”

 確かに、ただでさえ言葉を知らず、それもあっての空回り。今回みたいな尚のむずがりを、これからも多々、見せもするだろう久蔵殿ではありましょうが。そしてそして、あんまり細かいところまでを掬い上げるのは、どうにも不得手な勘兵衛様でもありますが。それでも、むずがっているらしいということ自体は、ちゃんと拾い上げてるお人だから、問題なく大丈夫。

  『あれをああも待たせたのは儂だからの。』

 そんな彼へと、色んなことを吹き込んだりもした。手のひらの熱。誰かの懐ろに身を寄せて暖まるときめき。大好きな匂いにくるまれる心地よさ。触れるもの皆斬って来た彼には、恐らく、経験のないことだらけであったろうし、待っている身だというのをいいことに、好き勝手に翻弄したようなもので。余計なことばかりを覚えさせたと、叱られこそすれ、そうそう簡単に手放す気などないに決まっておろうが…などと。惚気半分なそれこそ好き勝手を、七郎次が聞かされるのは、も少し後年のこととなるのだが。
(笑)






            ◇



 それから更に数日ほどが過ぎ、月が明けての暦も冬に成り代わった頃合いに。どちらの重傷者ももう付ききりでなくともとまでの状態になっていたからと、一旦 虹雅渓に戻ってた医師殿。予告もなしに検診へとやって来るなり、小型の電動ノコを持ち出すと、久蔵の腕を固定していたギブスをいきなり取り外してしまわれて。肘のところで折ったり曲げたり延ばしたり。時折 ちりりと眉を寄せかかるのを見逃さず、う〜んと唸ってさてそれから。今度は前腕だけを手首まで埋めるほどに固定をし、肘のところでの中折れという状態へとの変更とした。
「見ての通り、随分と筋肉が落ちてるし、肘の折り曲げは堅くなってる。だが、どうだ? 腕も肘も指も、自分で動かせようが。」
「…。」
 こっくりと頷いた双刀使い殿の表情が、興奮気味にほころんでいたこと。普通のよその人には全く判らなかったろうほどの、微細な変化だったのに、
「そうかいそうかい、そんな嬉しいか。」
 それはあっさり読み取れたのは、さすがお医者様だったからだろか。
「これで動かせる範囲なら、何をやっても構わない。刀の鍛練に望もうが、踊りのお稽古を始めよが、後へとの支障は出ねぇからの。」
 言うに事欠いて踊りのお稽古ってのは何でしょかと、七郎次が眸を点にしたが、それはさておき。

  「さて。」

 次はと、平八殿の方の診察へと向かった医師殿を見送って。垂れ込めていた不安の陰もこれで完全に去ったところで、と、状況をば見切った七郎次は、うんうんと力強く頷いてから、

  「それじゃあ、アタシは明日からちょっと、お暇をいただきますからね。」
  「…っ☆」

 そんな爆弾発言をして、せっかく元気になった次男坊をあたふたとうろたえさせた、罪作りなおっ母さんだったりしたのだった。


  「誰がおっ母さんですか、誰が。」






    続く

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 *ここの章の表題の“神無の冬”は、正確には“冬へ…”でしょうか。
  冬に至る前に、次の章になってしまった。
(う〜ん)

  前の段とは打って変わって、これでもかというほど甘い甘いお話で、
  しかも、何だか七さんばかりが目立っておりますね。
  さすが母は強しでしょうか。
(おいおい)
  どうも筆者は勘兵衛様に夢を持ち過ぎてる傾向があって、
  やっとぉの場面だったらいざ知らず、
  日頃のお話では無闇矢鱈には弄れないんですよう。
(難)
  その結果、皆様で一様に持ち上げてるところを描くのが限界みたいで。
  精進精進です、はい。

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